どう生き、どう還るか—「自然に還る」から考える生と死

イベント

日々を心地よく過ごしたい。
自分らしい選択を重ねていきたい。

そんな思いの延長線上に、「どんな最期を迎えたいか」という問いもあるのかもしれません。

2025年12月7日、循環葬®︎ RETURN TO NATURE(以下、循環葬)のパートナーである大阪・能勢妙見山の植田観肇副住職と千葉・真野寺の伊藤尚徳住職とともに、「『自然に還る』からひもとく、生と死の循環」をテーマにトークイベントを開催しました。

本記事では、この日の対話を通じてこれからの生き方を見つめていきます。

地域と風習に根付く、お墓のあり方

小池(司会 at FOREST代表):

循環葬は、私自身の「自分が欲しいと思えるお墓がない」という違和感から始まりました。多くの方の死や悩みに向き合ってこられたお二人にとって、「お墓」とはどのようなものとして捉えられてきたのでしょうか。

植田:

能勢では比較的最近まで土葬の文化が残っていて、墓標のない「埋め墓」がごく普通にありました。そこに誰が埋葬されているかは地元の人だけが知っている、非常に素朴なものです。

「参り墓」は別にありましたが、地域の人にとって、お墓とは必ずしも“石を建てるもの”ではなかったんです。小池さんから墓標を立てない循環葬の話を伺い、それを寺院の総代会で話したところ「それは埋め墓ですな」という反応が返ってきて、自然に受け止められました。

小池:

植田さんは「墓標がないのは仏教的にどうなのか」という点も、歴史から紐解いてくれましたよね。

植田:

お釈迦様のお骨に関してだけは、火葬して、舎利塔を建てて、信仰が途絶えることなく、ずっとお祀りしなさいと明記されています。でも、一般の人のお墓のあり方は定められていないんですね。

「先祖代々の墓」が一般化したのは明治以降で、家制度とともに広まったものです。それ以前は個人墓でしたが、日本中がお墓で埋め尽くされていないことを考えても、実際にはすべての人にお墓があるわけではありません。それでも、私たちは亡くなった方が成仏されていると信じてきました。お墓があるかどうかは本質ではなく、どれだけ心を込めて弔えるかだと思います。

仏教の視点からみる「自然に還る」感覚

伊藤:

私は檀家寺に生まれ、漁師の多い地域で育ちました。漁師さんたちは信仰心がとても厚く、毎朝船から降りて手を合わせ、お墓まいりも欠かしません。そうしたこともあり、代々のお墓に入ることは「当たり前」だと思っていました。

また、カロート(納骨室)の中のご遺骨もいずれは自然に還るものだと、漠然と思っていたんですね。ところが、現代の高温で焼かれたご遺骨は結晶化し、土に還りづらいという事実を知り驚きました。私自身、個人的に土に還りたいと思っているので、それができないことに強く引っかかりました。そうしたなか循環葬と出会い、これが私の求めているものなのかなと思いました。

小池:

私も循環葬を始めるにあたり、ご遺骨が本当に土に還るのかを知りたくて、神戸大学で土壌学を専門とする准教授を訪れました。そのとき言われたのは、ご遺骨の主成分はリン酸カルシウムであり、肥料としても当たり前に使われているものだということ。循環葬では、その准教授の監修のもと、ご遺骨をパウダー状にして土と混ぜることで土に還りやすくしています。

伊藤さんが「土に還りたい」と感じているのには、どのような原体験があるのでしょうか。

伊藤:

特別なきっかけがあったというより、幼少期からそう言われていたからかもしれません。

真言宗では、命の根源そのものを「大日如来」という仏の姿で表します。人の命は、その大いなる自然・宇宙の働きから生まれ、またそこへ戻っていくもの。その象徴が「阿(ア)」という梵字で、戒名の位牌の最初に記されるのも、命が大日如来=大自然の根源へ還ったことを表しています。

「阿字の子が阿字のふるさとを立ち出でて、また立ち帰る阿字のふるさと」という言葉が示すように、人は一度この世に生まれ、人生を終えると再びその源へ帰っていくという考え方です。

今、私は「私」という人生を歩んでいるわけですけれども、この私っていつからできたのかなって思うんですよね。個人としての確かな「私」が完全に独立して存在しているのではなく、さまざまな縁や関係のなかで形づくられている存在。そういう意味で、あらゆるものは自然・宇宙の働きでつながっている。だからこそ、土に還りたいと私は思うのかもしれないです。

植田:

私も伊藤さんと同じように感じているところがあります。仏教には循環の思想がベースにあり、命は生まれ変わり続けるという考えがあります。

縄文時代に炭火で焼いた骨が未だに残ってることを考えると、火葬したご遺骨を壺に入れて石室に納める現代の方法では、場合によっては何百年、何千年も残ってしまうかもしれない。そういう状況を考えたときに、土に還る循環葬は仏教の本来の姿とも通じるものがあると感じています。

弔いの時間が、故人を想う時間へ

小池:

お二人に循環葬を受け入れていただけたのは、「循環」の思想があったからだと感じています。実際に、循環葬の埋葬に立ち会ってみていかがでしたか?

植田: 

従来のお葬式では、お坊さんがお経を唱え、ご遺族の方は「観客」として見ているだけになりがちです。循環葬では、ご遺族が自らご遺骨を土と混ぜ、土に戻していきます。その姿は、ご遺族が主体的に弔っているという感覚が強く、むしろお坊さんの方が観客になるくらいでした。プリミティブ(根源的)な弔いとは「こういうものだったのかもしれないな」と、非常に感動しました。

伊藤: 

私も、ほっこりしたというのが率直な感想です。土曜の午後、家族でクッキーを作っているかのように、「きれいな骨だね」と笑顔で土と混ぜているんです。形式に収められた弔いではなく、家族の物語がそこにはある。こんなにも温かいお別れはないなと思いました。

生と死を分けない、循環の捉え方

小池:

私たちにとっても、埋葬の時間は心温まるもので、大事にしたいと考えている時間です。一方で、現代社会において「死」は敬遠されています。お二人は、死をどのように捉えていらっしゃいますか?

伊藤:

私は父を早くに亡くし、住職になったのは二十歳ぐらいのとき。父が元気であれば、何か道筋を示してくれたかもしれませんが、それがないなかで、自分で決めなくてはいけないことがたくさんありました。そのたびに、心の中にいる父親に問いかけていたんです。

そうした自分の経験から、死とは「永遠」なのだと思うようになりました。存在として、ずっと私の中にあり続ける。そう考えると、全然寂しくないなって。

自分の死について考えるときも同じです。肉体が分解されて大気や水に溶け込めば、それもまた永遠の形に戻っていくわけです。究極的には、「生も死もない」という感覚に近いです。

植田:

死には物質的なものと精神的なものがあると思うんですけども、仏教では肉体が滅んでも魂は残り、希望すればまた生まれ変わってくるという考え方もあります。

循環葬であれば、ご遺骨が土に還り、微生物や植物の栄養となり、食物連鎖を経て海に流れ、また地球全体へ広がっていく。これは「故人が世界のどこにでも存在している」という感覚で、輪廻転生のイメージとも重なります。

死を見つめることで立ち上がる、自らの生き方

小池:

循環葬をご契約された方の中には、「終の場所が決まったから、新しいことを始めよう」と、習い事を始めたり、引っ越しをしたりと、「生き方」が変わる方が多くいらっしゃいます。死を意識することは、今を生きることにどう関係するのでしょうか。

植田:

日蓮聖人の言葉に、「先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし」というものがあります。どう死にたいかを考えるからこそ、どう生きたいかが見えてくる。自分が未来に何を遺せるのか、未来に対して借金を作らずに渡していけるのか、という「生き方」の哲学につながると思います。

伊藤:

私自身、父の死を通して、人生は決して長くはないと実感したからこそ「やりたいことは先にやっておこう」と生きてきました。

修行時代に聞いた法話で今でも心に残っているのが、「あの世に持っていけるのは生き様だけだ」という言葉です。お金でも名誉でもない。自分がこの一回きりの生のなかで、何を成し遂げたいのか。それを思いながら生きていければ、それでいいと思います。

自分本位であるだけでなく、他者性も重要な部分ですよね。植田さんの「未来に何を残すか」のお話しともつながりますが、「より良き祖先になろう」という考えもあります。未来につなげていくために、今をどう生きるか。自分なりの最善の生き方を見つけていくことが、私たちに課せられた課題だと思っています。

多様な生と死を受け止める社会へ

小池:

最後に、葬送や死についてのお二人の未来像を教えてください。

伊藤:

循環葬の埋葬に立ち会ったとき、亡くなられた方の遺言は大事にされていた3匹のワンちゃんとも一緒に眠りたいということでした。その気持ちをご遺族の方が理解し、叶えられたことも素晴らしいことだなと感じました。

私が住職を務めている実家のお寺には檀家さんの先祖代々のお墓がありますけど、さまざま考えから、基本的には人とペットのご遺骨を一緒に入れてはいませんでした。

ペットも、単なるペットではなく、大切なパートナーであり、ご家族でもある。現代は生と死がどうしても形式的になりがちで、ともすれば伝統とされるものが個人の選択肢を奪ってしまうこともあります。本来はもっと多様でよいはずですし、故人が「どんな最期を迎えたいか」を優先できる社会であってほしいなと思います。

植田:

時代の変化のなかで、これまでのあり方に「何か合わない」と感じている方も少なくないと思います。それに対して、負い目を感じてしまうこともあるかもしれません。

LGBTQの方、事実婚のパートナー、ペットも家族として共に眠りたいと願う方。これまでは制度上一緒に眠れなかった方にとって、循環葬が一つの可能性として存在していること。それ自体が、とても大切なことだと思っています。

プロフィール

登壇者の3人

植田観肇(写真中央)
日蓮宗霊場 能勢妙見山 真如寺 副住職/能勢妙見山ブナ守の会 事務局長/京都嵐山妙林寺 住職

国内大手電機メーカーを退社後、世界三大荒行堂の一つといわれる日蓮宗大荒行堂に入行、寒一百日間の結界修行を4度成満。北摂で唯一、妙見山にのみ一万年前から残るブナ林を守る「能勢妙見山ブナ守の会」創設メンバーの一人。

伊藤尚徳(写真左)
南房総市真野寺 住職/鋸南町の円照院・極楽寺・往生寺の住職も兼務

修験道の入峰修行を契機に唯識・華厳思想への関心を深め、国際仏教学大学院大学で博士(仏教学)を取得。30歳の節目には、真言行者の二大練行とされる八千枚護摩供、虚空蔵求聞持法を修行。

小池友紀(写真右)
at FOREST 代表取締役CEO

広告クリエイティブの世界で15年活動。ホテル、コスメ、こども園などのコピーライティング、コンセプトメイキングを手がける中、先輩や祖父母の死、両親のお墓の引越しをきっかけに、日本の墓問題と向き合う。死と森づくりを掛け合わせた循環葬を創案し、2023年夏に関西・北摂の霊場 能勢妙見山にてサービスをスタート。


文:南澤悠佳