旅と日常の“はじまり”を奏でるー「てぇじる にぎぃめし Kichi」|館山

循環葬の森

館山駅東口のロータリーに降り立つと、ひときわ目を引くビルが現れます。壁面に躍る「DELICIOUS ONIGIRI」「EXCELLENT! ARAJIRU」の文字と、鯛の躍動的なイラストを染め抜いた朱色の暖簾。

そのポップな外観とは裏腹に、「てぇじる(鯛あら汁) にぎぃめし(おにぎり) Kichi」の扉を開ければ、出汁の香りがふわりと広がり、どこか気持ちがほどけます。

「旅のはじまりや一日のはじまりへの、期待が膨らむ存在になれたらと思って」

店主の漆原秀さんが語る通り、地元の人々と旅人の心とお腹を静かに満たしてくれます。

この町に「あったらいいな」をかたちに

漆原さんは、東京から館山に移住して2026年で10年目。DIY可能なコミュニティ賃貸住宅やゲストハウスなど、「この町にまだないもの」を一つずつかたちにしてきました。

「事業を通じて、少しでもこの町の未来が明るいものに変わったらいいなと思ったんです。これまで取り組んできたものでいえば、賃貸住宅は住人だけの場所、ゲストハウスは旅の人の場所。限られた人だけが対象となっていることに課題を感じていました。もっと地元で暮らしている人の“日常”に溶け込むものは何だろうと考えたときに、飲食かなと思いました」

駅前の空きビルを購入してテナントを募集するも決まらず、「それなら自分でやってみよう」と未経験ながら飲食に挑戦することに。はじめはジェラート店も検討しましたが、「駅前にあれば華やか。でも、地元の日常に寄り添うかというと違うかもしれない」と思い至ります。

メニューはテイクアウトも可。「鯛あら汁」を買って、高速バスに乗り込む人も

そんなとき、地元の魚卸店の社長から「鯛のカブトが余ってもったいない。これで名物をつくれないか」という相談を受けます。

「鯛の出汁ラーメンの提案もありましたが、鯛の淡白な良さを生かすなら、素朴なあら汁がいい。素材の良さが生きて、その土地のものを味わえる楽しさがあります。

鯛あら汁なら、それを目当てに『また館山にいきたい』と思ってもらえると考えましたが、それだけだと観光客向けです。それと相性がよく、地元の人にも喜んでもらえるものをと考えて、おにぎりと組み合わせることにしました」

2日がかりで仕込む沁みる味と、あえてそろえすぎない味

鋸南町勝山産の真鯛のカブトを丸ごと使い、じっくりと煮込む

主役のあら汁は、下茹でから味付け、一晩寝かせるまで、実に2日がかりで仕込まれます。

「冷蔵庫で寝かせると、味がなじむんです。おでんと同じですね」

血合いや、ヒレの黒ずみを丁寧に取り除き、旨味だけを引き出し、煮詰めすぎない。生姜を加えるタイミングも試行錯誤し、常に改良を重ねています。営業時間中は必ず30分に一度は味見をし、塩分計でチェックを欠かしません。

「味見するたびに、うまいなって思います」と、漆原さんから笑みがこぼれます。箸を入れれば、顔の部分はコラーゲンたっぷりでふわふわ。カマはホロリと崩れながらもしっかりとした身があり、部位ごとの違いを楽しめます。澄んだ汁をひと口すすれば、鯛の純粋な旨味が体の奥までじんわりと広がります。

おにぎりは注文を受けてから一つずつ握る。お米は南房総産・館山産の「コシヒカリ」と「ひとめぼれ」をブレンドして使う。海苔も千葉県産

一方のおにぎりは、あえて厳密なマニュアル化をしていません。

「ザ・チェーン店のようにはしたくなかったんです。スタッフそれぞれの気配りがにじみ出るような感じがいいなと思って」

厨房では、「今日は暑いから少し塩を強めにしようか」「具材が梅のおにぎりは塩を少し控えめにしよう」と、スタッフ同士がその日の米の状態や合わせる具材、天候を意識して握っています。そろいすぎない、その日の塩梅が、この店の味になっています。

鯛あら汁とおにぎり定食。写真のおにぎりは、人気の「鯛ほぐし」(左)と、「猪ジビエ」に卵黄をトッピング(右)。小皿は日替わりで2品選べる

地元客と旅人が交差する

現在、お店の営業時間は朝7時45分から14時まで。朝営業に踏み切ったのは、スタッフのKさんの「朝なら働けます!」という一言がきっかけでした。

「最初に朝食を出した日、お客さんが『なんか落ち着いたわ』と言ってくださったのが本当にうれしくて。漆原さんと『やってよかったですね!』と喜びました」と、Kさんは振り返ります。

スタッフのKさん

「優しい味」「沁みる味」を求めて、夜勤明けのホテル勤務の方が立ち寄る朝。
病院帰りのおじいちゃん、おばあちゃんが「ここのを食べたら、ほかのは食べられないわよ」と笑う昼。

地元の日常に根差しながら、旅のはじまりに温かい汁物を求める観光客も訪れます。房州弁の「てぇじる(鯛汁)」と「にぎぃめし(おにぎり)」という響きも、会話のきっかけになります。「これ、どういう意味?」の一言から、旅先の一期一会がはじまります。

今日も、誰かの一日の「イントロ」を奏でる

実は店名が決まるより先に、このビルの名前を音楽の始まりを意味する「intro(イントロ)」に決めていたそうです。旅や一日の“はじまり”を感じられる場所にしたい――そんな思いから名づけました。

「イントロって、そのあとの曲の本編への期待が高まる時間ですよね。この場所も、そんな存在になれたらいいなと思って」

だからこそ、スタッフにもこう伝えています。

「今日も素敵なイントロを奏でてください」

その思いは、店名にも重なっています。「Kichi」は、鯛とおむすびの“結び”、どちらの漢字にも「吉」が入っていることから名づけました。

「朝や旅がはじまる期待を高めるとともに、ちょっといいことが感じられる場所になれたらいいなと思っています」

あり続けるという約束

これからの目標を尋ねると、漆原さんは3つの約束を挙げました。

1つ目は、味の約束。
「ああ、この味だ」と思ってもらえること。

2つ目は、時間の約束。
決めた日に、決めた時間に開いていること。

3つ目は、続ける約束。
「また来たら店がなくなっていた、が一番残念ですから」

駅前に生まれた、小さなあら汁とおにぎりの店。その灯りが、町の風景を少しずつ変えていきます。

館山の朝に、やわらかな出汁の湯気が立ちのぼる。
今日もまた、誰かの一日が、ここからはじまります。

スタッフのKさん(左)とIさん(右)。笑顔と元気な声で迎えてくれる

漆原秀(うるしばら しげる)
2016年に館山へ移住。マイクロデベロッパーとして遊休不動産の再生に取り組み、これまでに複数の物件を再生してきた。その活動は行政との官民連携プロジェクト「館山リノベーションまちづくり」へと発展。2024年8月、地元の調理師の監修を受け、飲食店運営経験のある店長とともに「てぇじる にぎぃめし Kichi」をオープンした。駅前の活性化を目指し、今後はKichiの多店舗展開も視野に入れている。

てぇじる にぎぃめし Kichi(吉)
住所 千葉県館山市北条1882-25 intro 1F,2F
営業時間 7:45〜14:20(L.O. 14:00)
定休日 なし
ウェブサイト https://kichi-japan.com/


文:南澤悠佳
写真:Ayaka Hirokawa